こころのとおくで

お父さんはずっと僕を嫌っていた
お兄ちゃんもずっと僕を見なかった

ただ僕は、お兄ちゃんが好きだった

寂れた村の盛大なる宴会
村一の富豪である父が死んでから
初めての盛大なる宴会

明日、お兄ちゃんが結婚するから。

お気に入りの着物―父の遺産―を着て、
酔っぱらいながら友達とじゃれあうお兄ちゃん、
そのそばで、少し恥ずかしそうに、
飲み過ぎのお兄ちゃんをたしなめる千春さん。
時折はぐれた稚魚のような親類が、
僕のそばに来て、よかったな、おまえもうれしいだろう、まあのめ、と言う、
注がれた酒は苦く、それでものどを滑り落ちていく。

父は死んだとき、遺産をすべて兄に送った、
僕に残されたものは何一つなかった、
父のコート。あのコートだけは、欲しいと思っていたんだけど。

父の着物を着た兄は、ますます父に似て、
饒舌で人当たりがよく誰からも好かれるそんな父に似て、
りっぱになったなぁ、おまえもいちにんまえだなぁ
そんな声が、あちらから微かに届く。

僕は兄のお情けでこの家の「使用人」として住めることになった。
やることは多く、考える暇もなかった
つらくはなかった、兄のそばにいれることが、嬉しかったから。

たまに僕は兄の部屋に入って
―ぼくのへやのにばいはあるあにのへや―
父のコートに触る。
父のコートは着物と同じく、兄の宝物になった。

だれもいないとき、すこしだけはおってみる。
ちちとあにのにおいがする

すぐやめるけど。

兄も父も、傍目からは大変僕によくしてくれた、ように見えるらしい
ただ微かな

とても微かな こころの かさつき

手をつなごうとしてふりほどかれたり
さりげなくぼくをみるその視線の苦さや
決して、接吻をしない父や

自分からは話しかけてこない兄や

微かでよかった、それだけで。
それだけで僕は十分だった、愛されていないと分かりながら、
無理矢理だだをこねて、愛を求めるほど
僕は愚かじゃない

昔はこれでも愚かだったんだけど。
父のたいどにかんしゃくを起こして、父の手に噛み付いたこともあった
父はたいそうびっくりしていた、
兄にはよく抱きついた、ねぇねぇおにいちゃんといいながら
それでも兄の体が強ばるから、
かなしくて、かなしくて、無理矢理なんとかその強ばりをなくそうと
もっと体をくっつけたりした
何度もわがままを言った、その度にそれはかなった
父もあにも、僕を愛しているという態度は崩さなかった

誰も僕をたしなめた、そんなにわがままいうんじゃない、
おにいちゃんはあんなにりっぱなのに。おとうさんもこまるだろう。

人を好きになると言うことが、
どういうことか、僕はまだよくわからない。

兄が遠くで、千春さんのほっぺにふざけてキスしてる。
心がかさつく。

父が死んだとき、父は僕を病室に入れなかった、
入ろうとしたら、看護婦に止められた
あのね、あの、ごめんなさい、あのね、
中で父の声がした、あいつはいれるな、あれはきらいだ、みたくない
父は最後の瞬間に、呪縛を解いた、
演技をやめた、ぼくと母は良く似てる、暴君だった母、
ヒステリーを何度も起こし、真っ赤な口紅をつけ、男と遊び歩き、
父をののしり、兄と僕を叩く母。
母が死んだ日を良く覚えている。
あの人はその日も兄を叩いていた。
兄の尻を出させ、泣きわめく兄のそこに、タバコの火を押し付けた、
兄がひどくぜっきょうしていた、父はその母の頭を、

なにかで。

(もうなんだったかもおぼえてないほどのなにかで)

殴った。

母は血を流して倒れた。
それからなにがあったかは覚えていない、
父は母の死にずっと苦しめられていた、だから僕を見る度、
耐えることのできないほどの痛みを、その顔にうつした。

父と兄は母が死んでから、よくいっしょにねていた。
兄がなきじゃくるから。怖い、と言って。
僕も一緒に寝ようとしたけど、おまえはもうおおきいんだから、
と言われて追い出されたっけ。

兄と父は知らない。
兄と父が寝ているふすまをそっとあけて、
その姿を見て、少しこうふくになった僕を。
深夜、何度か起きだしては、ふたりの姿を見に行った僕を。
兄は父の腕に抱かれ、しあわせそうに寝ていた。
父はぼくをあいするかわりに、あにをひどくあいした、
恋人のように。何度も唇に唇を重ねて、お前はいい子だ、と
演技ではない―沁みるほどの本音で―兄を愛した、

父の最後は兄から聞いた。
兄のてをにぎり、おまえはいいこだ、と。

兄が父に愛される度、僕は幸福だった、
中学生になって、高校生になって、母と似ていくごとに
父は僕を嫌い、兄は僕を嫌い、
兄と父の平穏な空気を壊したくなくて、
よく遠くから眺めていた。

兄に父が触れる度、僕は胸がいっぱいになった、

あにとぼくをかさねていた、

兄の服を盗んで着て、父と兄がかわす何気ない会話を反芻して
兄の言葉を口にこっそりしてみたりした、
自分の異常さはじぶんでわかっていた、
だけどやめられなくて、ちちが死ぬまでそれは続いた、

父と兄の写真をこっそり撮って、
自分のベッドの下にしまった。
たまに取り出してはそれを見た、
父は優しい微笑みを浮かべ、兄の頭をなでている
兄は嬉しそうに父の手の感触を味わっている。

ぼくはそっとじぶんのあたまをなでてみる。

こんな感じかな、とつぶやく。

宴会はそろそろ終わりだ。
みんなほとんど酔っぱらってる。
千春さんが、兄を叱咤している。
優しくて強くて、たくましい千春さん。
母とも僕ともにていない。




はしら時計が二時を告げた。
僕はこの時計が怖い。
いつも、この音で兄と父が起きて
僕のひみつを―よるこっそりおきてはふすまをあけていたぼくのひみつを
知ってしまうのではないかと恐れていた。

そっと足音を忍ばせて、
手に持ったバックを握りしめる。
―とくになにがはいっているわけではない、歯ブラシと、少しだけ多めのお金が入ったお財布と、ちょっと迷っていれた、兄と父の写真―
僕はこの家を出て行く。
兄にはもう千春さんがいる。
幸せそうな兄。ぼくがいたら、そのしあわせに影を落とす。
手紙だけは書いた、しごとがみつかったので、砂丘の町にいきます、
あっちについたられんらくします。
さんざん探して見つけた仕事は世界一大きいと言われる図書館、
その司書の助手。
面接したら相手が気に入ってくれたらしい、昨日手紙がきた。
少しだけほっとした、これから先、仕事があるのとないのとでは大違いだ。


手紙の最後に、ありがとうと書いた。

いままで、ありがとうと。


よっぱらってつぶれた兄、薄暗い屋敷の兄の部屋。
千春さんは台所で片付けをしている。
久しぶりに兄に近づいた、その心音が聞こえるほど。
その唇にそっとふれてみた。
上唇をなで、下唇を押してみた。

なんだってわけじゃない、ただ、ちちがあいしたあにのくちびるを、ふれてみたかったのだ。

どんな気持ちで父はこの唇に触れたのだろう。
その手で、自分の唇に触れてみた、
一度も愛されなかった唇の感触は、兄とたいそう似ていた。



おにいちゃん。



おにいちゃん。




夜道を歩くと、少しゆきがふってくる、足下に消えていく白は寒くてきれいだ。


おにいちゃん。






おにいちゃん。







心が、兄を繰り返す。





あにのめをとおして愛をしった。
愛さずにはいられなかった、父も、兄も、ただ、寂しかったけれど、
愛されたかったけれど、ぼくはずっと、恨んでも、憎んでもなかったよ。

ただ今は、ただ。



ありがとう








ありがとう


そだててくれてありがとうあいそうとしてくれてありがとうずっとずっとみまもっていてくれてありがとうにくんでいたのに、きらっていたのに、ずっとずっとそばにおいてくれてありがとう。ずっとずっと



ありがとう。









お兄ちゃん。




愛して る。











砂丘の町で少し湿った朝、兄に連絡した、兄は探していたらしい、それだけで嬉しかった。少しだけ話し合った。もう、あわない方がいいと。兄は、そうか、と言った。結婚おめでとう。砂丘の町の司書は、なんだか僕が好きらしい。やけにくっついてくる。僕の名前をちゃんづけで呼ぶ。司書ってこんなんだっけ?