プルトゥム

私たちの世界はプルトゥムと言います。
小さな世界です。
草の中で、草を食で生きる者を名、無き者と言います。
あの光の後宮に住み、この世界を統べる者を、狂い人と言います。
住み易いかどうかは分かりません。
名、無き者は考えることを禁じられています。

●狂い人が道を歩き僕らがそれに出会えば、
僕らはぶるぶる震えながら草の陰に隠れ、
ワクイ(崩れるんだ)とささやきます。
誰に聞かす訳でもなく、独り言のようなものです。

●”彼”はよく僕に話しかけました。
それは異常なことでした。
他愛もない話をぶつぶつとよく喋っていました。
名、無き者がしゃべりあうことは、禁止されているというのに。

●”彼”は不意に僕の瞳をなめて
ナンの味もしないと涙ぐみました。
良くそういうことがありました。
そんなとき僕は、どうしようもないぐらい、何かを考えてしまうのです。
考えることは禁じられているというのに。

●狂い人を見ることは恐ろしくてできません。
だけど”彼”はへいちゃらで見ていました。
”彼”が言うには、僕らと何ら変わらない姿をしているそうです。
それは嘘だと僕が言うと、決まって悲しそうな顔をするのです。

●”彼”の耳たぶはぷっくりしていて少し熱の持った小さなものです
何でそんなことを知っているのかというと、
一度だけ夜に、”彼”の寝ているときに、ふれたことがあるからです。
何でそんなことをしたのかは分かりません。
とても柔らかくて、心臓が奇妙に早鐘をうっていました。

●狂い人にふれたことは一度しかありません。
狂い人はゆんわりと歩いていて、
僕を見、そっと頭を撫でたのです。
考えることを知らない僕は、無言でそれを甘受しました。
心地よかったのです。
大昔のことです。

●狂い人は”彼”が言うには、十人ほどいるそうです。
それぞれやっぱり考えることが好きで、
それを聞いて、やっぱり狂っているんだと思いました。
考えることが好きなんて。

●狂い人は金の海を持っています。
それに飛び込むと死体まで生き返ると言います。
だから狂い人は死なないのです。
でも彼はそれは嘘だと言いました。
生き返ることは、絶対ないと。

●彼は、海は光の後宮の、最後の扉にあると言いました。
僕はそれを眠るときに、眠りの物語として聞きました。
よく覚えています。

●彼が死んだとき、僕は初めて泣いた。
彼の動かなくなった手を握って、体を抱いて、ただ涙を流した。
銀の草原に、銀の月が昇り、なのに雨が煙っていた。

●それがいつのことだったかは知らない。
僕は人々を波立たせ、混乱させ、反旗を翻させた。
光の後宮に攻め込んで、暴れだけ暴れさせた。
彼の死体を背負った僕は、秘密にその暴徒から抜け出し、
光り輝く固い地面を走った。
海があるはずだ、金に光る海が。
最後の扉の奥に。

白く光る扉がその最後だった。
暴走は遠くの方で起こっている、
騒ぎの声は煙のように遠く、くぐもっている。
扉を開けた。
光の海だった。

僕はそっと、彼の死体を背からおろした。
じっと考えて、
そっと水につけた。
ゆるりと、水がたわんで彼を包んだ。
僕はそれを見ていた。

――なんで生き返らない
僕は膝を抱えてたゆたう彼をずっと見ていた
――生き返らない
暴走はおさまったらしく、
音はなかった
彼だけが異質なように、光の海にたゆたっていた。

「おまえはその男を生き返らせたいのか」
いつの間にか僕は泣いていた。
彼が死んだときのように。
僕の傍に、狂い人がいた。
「その男のために反乱を起こしたのか」
「大した行動力だ」
「こんなことをしたのはこいつだけだ」
狂い人達は意味の分からない好き勝手なことを言っている。

僕は涙を拭いた。
誰かが息をのんで、狂い人達が静かになった。
金の海に、足の先をいれた。
不思議と暖かいゆらりとした感触。
肩まではいった。彼の体を抱いた。
水の中で、彼が息づいている。
悲しくて、悲しくて、涙だけがぼろぼろ流れる。

「生き返って」

「生き返ってよ」

「arudeliumu、目を覚ませ。
その子がいい加減かわいそうだ」
「合格だ」
「合格だよ」

「くっははははっ」
彼の笑い声が響いた。
驚いて、彼の顔を見た、その顔はきらきらした目をして、
目を開いて、僕を見ていた。
そして僕を抱きしめた。
「いき…返った」

僕は力が抜けた、

騙したんだ―…
ごめんね。
光の海は、人を生き返らせたりしない
僕は元々死んで無かったんだ。
君を試していたんだ
だって僕のパートナーになる人だもの
え、僕がそう決めたんだよ。
もう、泣くなよ。
これで君もはれて狂い人の仲間入り。
泣くなよ。
うん、もうひとつ嘘をついていたよ
僕は元々狂い人なんだ