バー

「いらっしゃい」
店にはいると、半分溶けかかったバーテンダーが言った。
バーテンダーを包んでいる羊水が、赤と青の光をあげてごぽごぽと泡を放っている。
「まだ傷が癒えないの」と尋ねると
バーテンダーは微笑んで、首筋を触った。
小さな二つの傷痕から赤い血が羊水に静かに流れ出ている。
なんの効果か、一定の割合で水に混ざると、血が、揺らめき発光する。
これは眩しくて大変だろうに。
魅せられていたら、バーテンダーが困ったように微笑んだ。
「なんにしますか?」

バーテンダーはまだ人間であるらしい。
以前、自分でそう言っていたことがある。
頼んだリキュールを優美な手つきで作り始めた彼を
2・3の客がちらちらと眺めている。
妖糸(ようし)氏がしるしをつけてから無粋な輩は激減したそうだが、
たまにこんな時でも襲われたりして大変らしい。
リキュールの雫が羊水に飛び散るたびに金色に発光する。
「羊水に酒が入ったら酔っぱらっちゃうんじゃないかね」
「羊水の比重の方が軽いですから」
説明になっているのか、いないのか、微笑んで答えるとまたバーテンは酒の制作に熱中していった。
妖糸氏のつけた傷痕が、生々しく息づいている。
収縮するたびにちろちろと赤い血が流れる。
美味しそうな子だ。と思った。
妖糸氏よりも私が強ければ、傷痕なぞ消すぐらいに吸ってやるものを。

妖糸氏が何故彼を酒場に置いたままで、
羊水なぞに包んだりして不安定な存在にしたのか、
私にはなんとなく解る。
「理解できない」と言う声もあるが。
何せ彼はまだ人間であるし、か弱い存在なのだ。
何故城へもって帰って淫靡な奴隷にしてしまわないのか。
しるしを定着させる効果のある羊水で守られているとはいえ、
もし妖糸氏よりも強い魔が彼に目を付けたら、ひとたまりもない。
羊水など、足しにもならんのだ。

だけどなんとなくその心が私には解る。
何せか弱い存在でであるから。彼は。
流れ出る血と羊水の中の裸体は魔物どもの容赦ない目を惹きつけるだろう。
中には店が終わるまで嘗めるように彼を見つづける者もいる。
その中で頼りになるのは立った二つの小さな「しるし」なのだ。
そうだ、多分、妖糸氏は絶対服従の意識の土台を作っているのだろう。
妖糸氏がいなくなれば弄ばれ死ぬ運命の、彼は、妖糸氏に段々縛られていく。
そして身も心も彼の奴隷となっていくのだ。
淫靡な想像に小さな嫉妬と悦楽を感じながら、私は彼の手渡したリキュールをそっと飲み干した。
彼が堕ちていく様を見学するのは、どんなに楽しいことだろうか。

きいっとドアが軋んで、独特の靴音がした。
「あ、」
嬉しそうにバーテンが、顔を輝かせる。
妖糸氏が来たようだ、そろそろ退散の時刻らしい。
私が立ち上がると、あちらこちらで魔物の立ち上がる音がした。
そしてこれから、彼と1人の妖魔の遊技がはじまるのだ。