春の待ち人



にげよう

山の中を、歩く
ざく、ざく、ざく、
草の匂いが立ちこめる
もうすぐ春だ、
もうすぐ、花々が咲く

ルシュは

何もかも捨て、誰にも言わず、ただ手紙だけを書いて、
置いて来たルシュは、あのときのことを思い出していた
カデの牢の扉を開き、逃がしたあの日

手を握りしめると、それだけは持って来た、
カデからカーヤへの、手紙の布が、かさりという。

ふと、笑いがこみ上げる
嗚咽に似た笑い
あの女も、財産を狙っていたやつら、全部、驚くだろう
俺のなにもかもがなくなっていること
ルシュは昨日、全てを現金に変えて、
何個かに分けて、孤児院などに全額寄付してきた
なんで今までそうしなかったのだろう
ずっとずっと、しばってきた、あの日々

―もう、出て行け、

ルシュは、そう、ひとこと、ただつぶやいた、
視線をそらせた時、戸惑うカーヤと対照的に、
カデは微笑んだ
なんで微笑んだんだ、あの時、なぜ、カデ。
まるで、まるで
俺を許すように

―俺はもう、いい、お前なんか、お前なんか、もう、忘れる

ルシュは泣いていた、
あの時、分からなかったけれど、
今なら分かる、確かに、泣いていた
心から、全てを解き放った、あの瞬間

あいされていると、わかったあの時

―ひとりで、生きていく

カデは、ルシュの手のひらを、ぎゅうっと握りしめた
カーヤが、心配そうに見ていた

―一緒に逃げよう

カデ。
俺の、カデ。

がさっと音がした
ここに来るまでの道のり、そんなものは、もう体が覚えきっている
カデと、ルシュの、ふたりで愛し合った、
いつもの場所

カデ。

―カデは、ルシュを抱きしめて、一緒に逃げようともういっぺん言った
―ルシュは、首を振ることも、頷くこともできず、ただ、泣いてひらかれた場所、
柔らかな空気
かすかに、芽吹く匂い
夕刻の、赤く紫色に染まったそら。

カデは、真ん中に立っていた
ルシュを見て、微笑んだ。

「来ると、想っていた」

「来ると想ってた」
ルシュと寄り添い、手を握り合い、
カデはもう一度言った
ルシュは泣きそうな顔をしている
全て、全てが終わった、そのことに。

「信じていた、かな」

「カデ、俺は、もう、なにもない」

ルシュが、力なく言う

「おまえしか、いない
すべて、すててきた」

「……」

カデが、そっとルシュに接吻する
ルシュがそれに応じる
まるで、それが運命のように

「俺じゃ、いや、かな……」

じっとカデを見て、
じっと見つめて、
ルシュは微笑んだ。
忘れていた
笑うこと
忘れていた
こんな風に、人を愛しいと想うこと
俺は、なにをやっていたのか

「いこう」

月が見ている。今宵は満月。
もう、夜になった。
夜のうちに、この山を越えれば、
明日の朝、チュカに行く船に乗れる
追う者など、いないだろう、
ルシュを亡くそうと、何度もしかけてきた、あいつらのことだ
向こうには、カーヤと、ユナとか言う若者が待っている

カデがいる
ここに、いる、
ぬくもりを、くれる
だから。

だから

「いこう、カデ」

ふたり、ただふたりぼっちでも、生きていける
この広い世界で、
たったふたり、出会えたことが、


その印。


一緒に、逃げよう。
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